1960年代に芽生えたヤングファッションのパワーをリードしてきた髙田賢三さんとコシノジュンコさん。文化服装学院(以下、文化と略)の同級生で親友でもある。共に国際的に著名なデザイナーになってからもその友情は変わらず刺激し合ってきたお二人に、とっておきのエピソードや成功の要因について率直に語っていただいた。

(聞き手・文/田島由利子)
photo/杉田容子

 

髙田賢三(たかだ けんぞう)

 兵庫県生まれ。1961年文化服装学院デザイン科を卒業し、65年に渡仏。70年パリにブティック「ジャングル・ジャップ」をオープンし、初コレクションを発表。日本人としての感性を駆使した新しい発想のコレクションで世界的な名声を得る。その後ブランドを「KENZO」とし、高い評価を受ける。現在は、「KENZO」ブランドを離れ、クリエーションにおける異業種とのコラボレート事業を展開。その他、世界の伝統文化を継承するための活動をライフワークの一つとしている。

●お知らせ
『髙田賢三自伝 夢の回想録』(日本経済新聞出版社 定価1900円+税)が絶賛発売中。
髙田賢三さんの生い立ちからデザイナーになったいきさつ、パリでの成功とLVMHによるブランド買収劇、1999年10月の「ケンゾー」ブランドのラストショー以降の生活などが赤裸々につづられている。「後輩・山本耀司が語る髙田賢三」「ケンゾーの故郷・パリを歩く」「賢三の故郷・姫路を歩く」も収録。
 

コシノジュンコ

 大阪府生まれ。文化服装学院デザイン科在学中、装苑賞を最年少(19歳)で受賞。東京を拠点に、1978年からパリコレクション初参加。以降北京やニューヨーク、ベトナム、キューバ、ポーランド、ミャンマーなど各地でファッションショーを開催。オペラやミュージカルの舞台衣装やスポーツユニホームのデザイン、インテリアデザインまで幅広く活躍。国内外での受賞、受勲など多数。東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会 文化・教育委員会委員。

●お知らせ
NHKの朝の連続ドラマ『カーネーション』(2011年放映)の再放送が4月10日より開始。
毎週月曜~金曜・午後4時20~50分、1日2話ずつ放映(全151話)。コシノジュンコさんの母小篠綾子さんの人生が描かれているが、ミシン1台から洋装店を始めた成功物語はそのまま日本のファッション史でもある。今回ご対談いただいたコシノジュンコさんと髙田賢三さんの交流も演じられている。

創作の原点は絵を描くのが好きだったこと

 ――コシノさんは昨年「文化功労者」に選出され、髙田さんは一昨年フランス政府からレジオン・ドヌール勲章(シュバリエ位)を授与されました。デザイナーとして上り詰めた印象がありますが。

 コシノ:母が洋裁店を営む家に生まれたのでファッションは身近でした。家業は姉(コシノヒロコ)が継ぐと決まっていたので、私は画家になりたいと絵の勉強をしていました。

 でも高校3年の夏、文化に行っていた姉のスタイル画の先生が私の絵を見て「こんなに上手なら、その才能をファッションに生かした方がいい。絶対に文化に入りなさい」と強く勧めてくださった。それが今につながっています。

 髙田:僕も子供の頃から絵を描くのが好きで、将来はイラストレーターになりたいと思っていました。高3のときに服飾関係の学校に進みたいと調べてみたけど、男子を受け入れている学校はなかったので、大学に入学。ところが、文化が男子の入学を許可したことを知り、大学を中退して上京しました。

 文化に入ってみると、家業(注:洋裁学校や洋裁店)を継ぐために来ている人が多く驚きました。でも自分の意志で文化を選んだ、夢を持っている人たちと仲間になった頃から生活が楽しくなり、デザイナーになる目標が明確になりました。社会に出てからも人との出会い、つながりで奇跡のようなことが起こり、今に至っている気がします。

「装苑賞」受賞が夢の第一歩

 ――コシノさんが第7回装苑賞(1960年上期)、髙田さんが第8回装苑賞(60年下期)を受賞しています。装苑賞は”ファッション界の芥川賞”といわれていますが、やはりそれくらいの価値はありますか。

 コシノ:文化入学と同時に装苑賞の存在を知り、目標に。審査員の先生が5人いて、誰にデザイン画を見ていただくか自分で決めるのですが、私は毎月5人の方全員に各20枚ずつ提出し、いつか目に留まるのではと期待していたところ、思っていたより早く森英恵先生に選んでいただき、19歳で受賞できました。

 すると雑誌『装苑』から掲載する服を作ってほしいと依頼があり、さらに学生であるにもかかわらず銀座・小松ストアーの中にコーナーをつくって服を売るチャンスも舞い込みました。「コシノジュンコ・ジュニアコーナー」が誕生したのは61年1月、卒業の2カ月前です。

 髙田:僕も文化に入学後、装苑賞を知り1年の終わりからデザイン画の提出を始めました。ジュンコの受賞に刺激され、ますます熱心に取り組むようになり、各先生に30枚ずつ提出していました。デザイン画が選ばれた後、洋服に仕立てて作品審査に移るのですが、1回の審査会のために5点作ったこともありました。最終的に野口益栄先生(注:文化の先生でありデザイナー)に選んでいただいた作品で装苑賞を取れました。

 文化で勉強しても男子に就職はあるのかと心配する時代でしたが、既製服メーカーのミクラに就職できました。

 僕は松田光弘君(ニコル創業者)、金子功君(ピンクハウス創業者)、ジュンコの4人でいつも一緒にいました(注:全員成功したため後に”花の9期生”と呼ばれる)。僕らはコンテストマニアで、ありとあらゆる賞に応募しました。装苑賞の賞金は10万円で最高額。3万円、5万円の賞金でも魅力的でした。ミクラの後に転職した三愛の給料が1万5000円という時代。学生のときは8000円で生活していましたから。

 パリではデザイン画を売ってみようと思い切って腕試ししました。1週間でスケッチブック3冊分描けたのは、装苑賞のために描きまくったおかげですね。結果的にはデパートや雑誌社に買い上げてもらえました。