「第86回 商業界ゼミナール」の開催が迫ってきた。

 同ゼミナールは600人を超える商人が集い、3日間の寝食をともにしながら、計20を超える講座に触れ、交流し、語り、学び合ういわば「商人の大勉強会」。本ゼミナールを企画し、運営に当たる運営委員と呼ばれる人々もまたこのゼミナールで学んできた「商人」である。本シリーズでは運営委員の皆さまに「商業界ゼミナールで得たもの」「商業界精神が教えてくれたこと」をテーマに語ってもらう。

 今回は運営委員長である原田政照氏。MHホールディングスを経営し、弁当・惣菜専門店「むすんでひらいて」はじめ200店舗以上をチェーン展開する。原田氏が現在に至るまでの「商業界」との関わりとは。

原田政照(はらだ まさてる)●1947年福岡県行橋市生まれ。大学卒業後、北九州の建設会社に入社。31歳で実家の茶舗を継ぎ、市役所内の食堂運営や弁当の注文販売を経て、うどん屋をファストフード店に改装。北九州に展開するロヂャース(現・ルミエール)にファストフード店を出店。1988年(株)むすんでひらいてを設立、ロヂャース苅田店に1号店を出店。九州有数の惣菜・弁当店チェーンに成長させた。商業界ゼミナール同友会チューター。

 私は1947年、福岡県京都郡行橋町(現・行橋市)で茶舗を営む両親のもとに生まれましたが、代々の商家だったわけではありません。

 父(原田滋高)は行橋町の南部、松原で農業をしながら農協の役員をしていましたが、隣接する築城町(現・築上市)に海軍航空隊の飛行場が建設されることになり、土地を接収されてしまった。移転先を探していたときに、行橋の中心街にあるお茶屋を居抜きで貸すという話があって、母・八壽重と結婚しそこに新居を構えたのです。そこで父も母も未経験ながらやむなく商いの道に入ることになったのです。

 父は結婚後も農協に勤めていたため、茶舗の経営はほとんど母が一人で行っていました。しかし、戦後の物不足の時代だったこともあり、商売は順調でした。65年頃には、父が購入していた土地と家を借りて食品会社が経営していたうどん屋が撤退することになり、家主である父に「経営しませんか」という話がきて、経営することになりました。

 母は素人ながら商才のある人でした。私や二人の妹を育てながら、二つの店を切り盛りしていたのです。また、非常に気丈な人で、一人で店にいたときに入って来た泥棒を「何してんね! あんた!」と一喝して追い返したこともありました。

 私は結婚後十数年たって生まれた長男だったこともあり、両親にはかわいがられ、期待されて育ったようです。商人の家に生まれたことで子供のころから「いらっしゃいませ」という言葉が自然に出るようになったし、毎日店に来るさまざまなお客さまを見ることで、人を見る目が育まれたように思います。

 しかし、家業を継ごうと考えたわけではなく、大学では電子工学を専攻し、卒業後は北九州の建設会社に就職しました。その後、行橋の米穀店の娘だった妻・淳子と結婚して、長男の航太も生まれました。

 仕事は楽しかったのですが、入社6年目くらいに会社を辞め、行橋に戻ってお茶屋とうどん店を譲り受けることになりました。特に強い志があったわけではなかったのですが、長男としての責任もあったし、今思えばサラリーマンよりも商売の方が楽しいと感じていたのでしょう。

「商売をするなら大きな会社にしたい」という夢はあったので、青年会議所にも入所して見聞を広めようとしましたが、中小企業の跡継ぎ息子が集まる青年会議所の派手な付き合いにはついていくのは大変でした。

 そんなとき、新たに建設される行橋市の7階建て市庁舎の最上階につくる食堂、喫茶店の公募がありました。商売を大きくするきっかけを探していた私は迷わず、立候補しました。競争相手もなかったため、請け負うことができたのです。

 他に応募者がいなかったのは、条件が厳しくて社員食堂の専門業者がみんな辞退したからだったのだが、そんなことは素人の私には知る由もなかった。そして、うどん屋をやっているのだから食堂経営もできるだろうという見通しが甘かったことを、後に痛烈に思い知らされることになったのです。

赤字続きの市役所食堂で生まれた大きな人の縁


「さあ、新しい事業のスタートだ」と意気込んだ私は、チーフ料理人を雇い、食堂に5人、喫茶店に2人アルバイトを入れました。銀行から融資を受けて、食堂や厨房のさまざまな設備も整えました。

 食堂ができれば職員はみんな来てくれるものと考えていましたが、オープンしてみるとお客さまはほとんど来ませんでした。職員たちは7階の食堂まで上がってくるのは面倒だったようで、以前から出入りしている弁当業者から弁当を取ったり、近所の店に出前を頼んだりして、自分の机で昼食をすませる人が多かったのです。

 小さなうどん屋での経験は、食堂の経営には何の役にも立ちません。市場で魚を箱単位で安く仕入れたものの、うまく使いまわせずに無駄にしてしまったり、納入業者に言われるままに大量の鶏肉を仕入れ、腐らせてしまったりしたこともありました。

 当時は数値管理などまったく知らなかったし、きちんとした帳簿を付けておらず、とても経営といえるようなものではなく、どんどん赤字がふくらんだのです。

 何とかしなければと思った私は、弁当をつくって、市役所内や周辺の事業所に売ろうと考えました。市役所の担当者を説得し、1個500円の弁当を自分で車に積んで、毎日あちらこちらへ販売に回った。