文明がなければ文化は成り立たないが、文化がなくても文明は成り立つ。簡単に言えば、文明とは、「金と(武)力」であり、文化とは「広い意味での生活」である。古代ギリシャ、古代ローマ、中国歴代王朝、欧州列強、米国……など文明が興ってその後、その金と力を背景に、独自の生活文化が栄えた。信長は、この金の重要さを認識した最初の武将であり、それは秀吉に引き継がれた。織豊時代、わが国の武力は世界最強であった。それ故同時に、茶の湯、生け花、陶磁器のみならず、日常生活文化も栄えた。

 逆に金と力はあったが、文化が育たなかった事例は、かつてのソ連である。軍事パレードを最大の魅力とカンちがいする今の中国も、それに準ずる。かつてのソ連は核兵器も軍隊も世界最強であったが、文化は全く育たなかった。今の中国も、武力だけは米国を超えるほどであるが、いまだにさまざまな不法なコピーが横行している。それは人々がコピー商品で営まれる生活文化ででも満足しているということであり、コピーするしかないという技術の偏向を示している。

 ところが日本の江戸時代は、金だけは手工業と商業の力と鉱物資源のおかげで織豊時代よりふんだんにあったと思えるが、力、特に武力の方は幕藩体制の整備とともに徐々に衰微に向かった。武士は「侍」ではなく「官僚」になっていった。その現実は、黒船が証明した。にもかかわらず、江戸時代は今日の生活にもつながる「文化」が大いに栄えた、ある意味で世界的に例外の時代である。その例外をつくった理由は、1つは鎖国という戦略的判断であり、2つは日本が極東に位置する島国で脅威が限定されていたことである。

 例えば屋台のそば、寿司、鰻、焼き鳥、碁将棋、歌舞伎、花見、花火、伊勢参り、富士講……などが大衆のものになったのは、江戸時代である。今日でもわれわれの日常生活には、意識せぬまま、この江戸時代から引き継がれた生活文化が数多くある。だが「文明と文化」を論じることが、本論の主題ではない。この江戸時代以来引き継がれてきた「生活文化」が、ネットと大いに関わりがある、と指摘することがテーマである。

 セブン-イレブンは、なぜ「おいしさ」にこだわるか。わが国のスーパーマーケットの客は、なぜ「トマト」でも「パン」でもなく、「このトマト」「このパン」にこだわるか。江戸時代から育まれ、連綿と続いてきた「文化」のおかげである。逆に米国のスーパーマーケットを見れば、客の多くが無造作にトマトをパンをレモンを、カートに放り込んでいる。彼らは「このトマト」を選んでいるのではない。この彼我の違いこそ、特に食に関するわれわれとの「文化」の違いを示すものである。

 そしてこの事実こそ、日本におけるネットが「食の分野」を制覇する障害になっている。なぜなら現状のネット注文方式では、「このトマト」も「このパン」も選べないからである。ネットで選べるのは、要するに「トマト」であり「パン」でしかない。「トマト」や「パン」を無造作にカートに放り込む米国なら、それを現在のネット注文方式で選んでも何ら支障がない(もちろんそれもある種の「信用」ではあるが)。

 ウォルマートの、特にスーパーマーケット売場でのナショナル・ブランドとそのイミテーション廉価版であるピービーだけの品揃えが成立するのも、それが業界トップになっているのも、「店舗ピックアップ」が成立するのも、その背景はここにある。商品を1つずつ手に取って確かめ選定する、そのような「生活文化」そしてそれを「快楽」と感じる文化は、わが国独自の文化であり、彼の国の文化ではない。そしてその文化は、明らかに明治なってから生まれたものではなく、江戸時代から引き継がれた文化である。

 だから「店舗は残る」といいたいのではない。指摘したいことの1つは、ネット注文方式を、米国で採用されているあの「品種一般」を注文する方式から変換すべきだ、という勧めである。そもそもネットは書籍から始まった。書籍は「品種」で発注するものではない。特定の「この品目」を発注する商品である。われわれがネットで購うのは漱石の著書一般ではなく、特定の、例えば岩波文庫の『坊ちゃん』である。

 書籍のネット注文が支持されたのは、この特定品目発注が可能だったからである。それは同時にロングテイル発注まで可能にした。それは「店舗」での買物より、さらに的確な「品目発注」を可能にするものだった。むしろこの時ネットの出現によって、書店という「店舗」は、より詳細な品目発注には向いていないメディアであることが明らかになった。

 お客はネットによって、より詳細かつ広汎な「品目特定発注」が可能であること、「この書籍」を選ぶことができるようになった、ということを自覚した。これは「店舗」への決定的打撃であった。今、それはファッションに及んでいる。もっともネットで注文できるのは「知っている書籍=モノ」だけである。聞いたことのないCD(例えばあなたは浮城久美子という絶妙のジャズ・ピアニストの『五色』というアルバムの存在を知っているか、山本義隆という著者の『磁力と重力の発見』という労作を知っているか)、読んだことのない著者の本は、ネットでは普通注文しない。ソレを知り、欲しくなるのは、他の方法によってである。ネットはこの点では無力である。ネットが最もその本領を発揮しているのは、例えば既に既知の水のサブスクリプションである。

 にもかかわらず、今、問題にしているのは、その「ネット注文方式」が、少なくとも書籍よりより重大かつ広範な食生活の分野では、「品種発注」にとどまり、より詳細な「品目発注」すなわち「あのトマト」ではなく「このトマト」を発注するには適していない、という事実である。

 ではどうすればいいか。それが2つに「お客をならす」ことの重要性である。かつてより、私はセミナーで、精神主義的な「お客様第一主義」を徹底的に批判し、「お客」は企業が創るものであり、「しつける」ものであり「動かす」「ならす」ものである、という精神主義者が聞いたら卒倒しかねない主張を繰り返している。

 だが私が安心してそう主張できるのには、訳がある。第1に何があろうと、最終決定権を持っているのは、自分で自分のお金を払う、「お客」である。第2にしかも「お客」に対応しているのは、わが社だけではない。「お客」にはさまざまな選択肢がある。

 では「ならす」には、どうすればいいか。体験させることである。ドコで? 「店舗」でである。これまでお客はスーパーマーケットの、セブン-イレブンの、店舗に行って買物し、選んでいた。買ったものは、当然に「味わう」。自分の選んだ「このトマト」の味が確かなものであることを確認する。その確認が度重なる。それが信用を生む。

 その店のネットで発注するときも、その「信用」のみがモノをいう。お客は、あの店なら、店で自分が店舗まで赴いて、「このトマト」を選ばなくても、ネットで注文しても、「このトマト」に匹敵するものが必ず送られてくる、と「信用」する。私がネットは商圏拡大ではなく、わが店の商圏のさらなるシェア充実のために用いよ、と主張するその理由はここにある。

 度々店に来るカスタマーだからこそ、安心してネットで発注する。ネットでも安心するから、店舗にも来る。ネットと店舗は、商圏内シェア充実という戦略と、カスタマーになっての度重なる体験とによってこそ、両立する。

 ネットを持たない企業は、決定的に不利になる。その店で買いたくても諸都合でその店に行けないとき、客は他の店あるいはそのネットを選んでしまう。その体験がたまたま良ければ、その店のカスタマーになる。わが店がより良くなっても、体験しない以上、それは認識されず、カスタマーになって戻ってくる機縁が小さくなる。今は試行錯誤の途中にあると思える「オムニ・チャネル」を考えた時、戦後日本の創業者で本田宗一郎氏と双璧というべき、セブン-イレブンの創業者鈴木敏文氏が意図したことは、そんなことではなかったか。

島田陽介先生のメールアドレス:shimad@msb.biglobe.ne.jp

※本稿は島田陽介先生のアドレスにアクセスした方に「今月の提言」の形で送っているものの加筆訂正版です。