「買物」は「快楽」である。いや「快楽」でなければならない。単に「用が足り」ればそれで「買物」になるのではない。「店舗ピックアップ」は、「買物」ではない。自らによる「配送」でしかない。だが同時に「店舗買物」は、素人が印象批評でつい口走る「店内をどきどきしながら回遊する面白さ」などという抽象的な楽しみでは決してない。

 具体的・物理的に考えよう。第1に、人々は「とにかく多数のお客が集まった場」に「出向いていって、彼らと一緒に買物」したいのである。客の少ないスーパーマーケットでの買物を想像して見よ。どんなに品揃えが良くても、それは「快楽」にはならない。多数の客がいてこそ初めて、「買物」は「快楽」になる。買物は単なるモノとお金の交換行為ではなく、とくに会話を交わさなくても、「生きた人間を見る」重要な機会なのだ。

 第2の理由は、例えばスーパーマーケットで、われわれが買うのは、「キュウリ」や「サラダ」ではなく、「このキュウリ」であり「このサラダ」である、ということにある。でなければスーパーマーケットの売場で、わざわざキュウリやサラダを、手に取って選ぶ必要はない。「店舗ピックアップ」で済ませればいい。そしてその選択が「快楽」になるのは、「選ぶとき」、われわれの五感が、総動員されるからだ。視覚・聴覚(スイカを叩いたりする)・触覚・味覚・嗅覚……全てが総動員される。いや「されなければならない」。人間も1個の動物である以上、感覚の総動員が快楽であることは、物理的にいって他の動物と何ら変わりがない。カンちがいしてはならないのは、陳列や売場が「一風変わっていること」が、この「実感」を呼んでいるのではない。一見すると平生の陳列に、カスタマーは「感覚」を「総動員」するチャンスを見いだす。

 第3に、五感を総動員することで、「快楽」が体験できるのは、そこに知能が働くからである。考えてみれば、知能はそれ自身で働くことは、ほとんどない。五感が何らかの外部からの対象物を感知し、その発する信号を感知して初めて、知能が働く。書籍が目の前にあって初めて、読もうという意欲が働く。ところがわれわれの日常生活に、五感を総動員するチャンスは、実は極めて少ない。五感を総動員する機会の多くは、非日常生活において、である。例えばスポーツ観戦、コンサート参加、旅行、恋愛、交友、パーティ、外食……。いずれも具体的な・外部の・対象物がある。だが日常生活では、テレビもYouTubeも、仮にソレを見て「どきどき」したとしても、それは所詮「イメージ」に過ぎず、限られた感覚しか使用していない。日常生活で五感がフル動員されるのは、食事の時くらいである。

 だが多くの場合、朝食・昼食は事務的に済まされる。夕食のみが五感フル発揮の唯一の機会である。日常生活に五感総動員の「快楽」の可能性は、極めて限られている。テレビを見るのに、臭覚も味覚も触覚も、働かす必要はない。新聞はインクの匂いという臭覚、書物は書籍の厚みという触覚に関わるが、それでも五感総動員にはならない。とすれば夕食を除けば、「買物」こそ、日常生活でほとんど唯一の五感総動員の機会であり、しかもそれは「必要に迫られ、しなければならない」行為でもある。非日常生活での五感総動員による快楽は、1つには必要に迫られてするものではなく、2つに余分のコストと時間が必要になる。

 私は先の提言において、ウォルマートの「店舗ピックアップ」が、「恥辱」であるといった。それが「恥辱」なのは、もしわが店がそれを実行し、多数の客がそれを認めたとすれば、の話である。それは、その店での「買物」が、以上に述べた「五感総動員」にならない、なっていないことの証明だからである。ウォルマートで「店舗ピックアップ」が、成立するのは、画一売店チェーンでの買物は元々五感総動員の「快楽」ではなく、必要の「充足」でしかないからである。ウォルマートでは、客は初めから「このキュウリ」「このサラダ」「このブラウス」を選べると期待していない。ナショナル・ブランドとそのイミテーション廉価版であるピービーしかないからだ。ナショナル・ブランドとは、カタログで注文してもいいもの、五感で改めて確かめてみる必要のないもの、である。

 その最もいい例は、ウォルマートとはちょうど反対の極にある「銘菓」の類いである。われわれは歳暮・中元の時、カタログを見て、ネットで、「銘菓」を発注する。この時、用いられている感覚は、視覚のみである。事実その体験は決して「快楽」ではない。その「銘菓」を実際に「買物」すること、自ら食することは、五感総動員であり、明らかに「快楽」である。だがそのカタログやネットによる「買物」は、「快楽」ではあり得ない。

 ファッションのネット買物・転売が、進行しているのは、「快楽」になり得るからである。それは「店舗ピックアップ」と異なり、全て事実上の「衝動買い」になり得る。そこにはウォルマートと同じ意味での「品切れ」というものがない。ファッションにおいては、お客は、これこれしかじかと買いたい品目の細目を決めて、買物するのではない。店舗でもネットでも、客は大まかな目的だけで後は「出たとこ勝負」で臨む。店舗を買い回るのもネットをサーフィンするのも、ある特定の品目を決めてソレを「探す」ためではない。ある特定と自分が納得できる品目を、「発見する」ためである。だからそれが見つからなくても客は品切れとは思わない。単に買いたいモノがなかった、と思うだけである。

「探す」のではなく「発見」というのは、ファッションの場合、売場を見なくても決められる「店舗ピックアップ」商品群と異なり、ソレを見るまで何に遭遇するか、自分自身でも想像がつかないからである。ショッピング・センターに行ってそこで見つけたいモノが見つかるかどうかは、やってみなければ分からない。客はあるモノを見たとき、見て初めて、実は知らず知らずに自分が求めていた品はこれである、と認識あるいは錯覚する。

 それは恋愛に似ている。恋愛は、予定してできるわけではない。ある特定の相手に会って初めて、その瞬間に、求めるという感情あるいは錯覚!が芽生える。恋愛の話ではない、ファッションの話である。恋愛もファッションも、「出会う」ことから始まる。とすれば「出会う」かどうか、五感を総動員し研ぎ澄まして探さなければならない。だがそれはファッションだけの話ではない。スーパーマーケットでも、事情は全く同じである。素人なら、トレーダー・ジョーを「一風変わったSM」と見て、そこにネット対応を錯覚するだろうが、プロならそこにストア・ブランド群の羅列だけで、カスタマーが「五感総動員」が行われ、充分にそれだけでネットに対応していることを感知し得る。そこでそれを実現する「企業構造」が織り込まれていることも感知出来る。。

 ファッションの場合も、「このキュウリ」の買物と同じように、「ブラウス」一般ではなく、買うのは「このブラウス」である。だがそれは、店舗に行くことが必須条件ではない。ネットでも、ほどほどには、それができる。ファッションの買物は、感覚だけでなく、知性が参与し得る余地が多いからである。ネットでのファッション買物は、視覚のみ、試着も触感を試すこともできない。客は、過去の買物体験、現在の所有在庫とその評価、想定し得る「欲望」(例えば、どんな格好をしたいか)……などのデータを、知能あるいは知性を総動員して検討する。この時、ネットは店舗と同じ、あるいはよく似た働きを示す。だからネットは、スーパーマーケットよりファッションに適合する。

 話は飛ぶが、(これはあくまで私見であるが)同じ天才でも「くりぃむしちゅー」の上田さんと島田紳助の違いは、前者にはゲストの言動にアドリブで突っ込みを入れる応答の才能しかないのに対し、後者にはアドリブでの応答のみならず、独創的な発話の才まで兼ね備わっていたことである(ただし彼の人生ご教訓話という発話だけは余分であるが)。

 ネットと店舗の「買物」の大きな違いは、ここにある。ネットには発話しかないが、店舗にはその両方が備わっている。発話というのは、店舗要員との情緒的会話などではない。「あのキュウリ」「あのファッション」こそが、そのアソートメントこそが、客に発話し応答している。ネットも店舗も、それが新しい・便利なメディアだ、と考えるだけでは十分とはいえない。IT技術に通じていればいいのではない、まして素人の印象批評など一顧の価値もない。「買物」の「快楽」とは何かを、自らのビジネスの本質と突き合わせて、論理的に考える思考が必要である。

島田陽介先生のメールアドレス:shimad@msb.biglobe.ne.jp

※本稿は島田陽介先生のアドレスにアクセスした方に「今月の提言」の形で送っているものの加筆訂正版です。