アマゾンの特徴の1つは、その無制限といっていい「品揃え」にある。アマゾンからいえば、店舗流通業にとっての「店舗」は、いわば自縄自縛の罠である。なぜなら1つに、どんな店舗も面積は有限であり、だとすればその有限の面積に品揃えするしかない店舗流通業の品揃えもまた、「有限」であることを免れない。

 しかも2つに、有限なのは面積だけではない。店舗は、商圏も有限である。たばこを買うのに、30分かけてくる客はいない。3つに店数もまた有限である。

 ところがそもそも「店舗」を待たないアマゾンにとっては、1つに面積は無限であり、従って品揃えは無限である。それがロングテールである。それはあらゆるお客の要求に応えられる、ということである。哲学書からエロ本まで、研究者向け書籍から幼児向け絵本まで。

 と同時にそれは、2つにはほとんどあらゆるエリアのお客の要求に応えられる、ということでもある。大都市・東京から離島孤島に至るまで。3つにアマゾンには店数という制限もない。アマゾンは品揃えのみならず、到達エリアにおいても店数という制限においても、「ロングテール」を実現している。

 だがロングテール神話の本質は、実は以上の3点にあるのではない。その本質は、実はアマゾンがロングテールにも配達にも、直接関知していないこと、にこそある。私は約50年前に『ファッション販売宣言』という訳書とその3年後に著書『マス・ファッション』を出した。だがこのどちらも手元にはない。私には、過去の著訳書を後生大事に抱える趣味はない。ではどうしてその発売年を知ったか。いずれもアマゾンで、である。

 いや正確にいえば、アマゾンを通して、某古書店と某古書店にあることを知った、のである。私が指摘したいのは、この2書がまさに典型的な、これ以上ないロングテールだからである。今、この2書を購いたいと思うものは、よほどの物好きだというしかない。アマゾンは、その「よほどの物好き」の要求に応えている。どうやって。

 アマゾンが直接タッチするのではなく、古書店を通じて、である。おそらくアマゾンに「ブラ下がる」(これは決して蔑称していうのではない、あくまで論理的にいうのだ)数知れぬ世の古書店を通じて、である。だが事態は書籍に限らぬだろう。この世のあらゆる商品、すなわちロングテールのほとんどは、それがロングテールであればあるほど、アマゾンが直接タッチするのではなく、アマゾンが「ブラ下げた」ソースを通じて、それを手配する。

 そして「ブラ下げた」ソースの無制限に近い多さにおいてこそ、アマゾンはその無制限に近い品揃えを確保しているのである。同じことはもう1つの全国津々浦々への、どんなチェーン店舗をも超えるアクセスについてもいえる。配送も、アマゾン自らではなくアマゾンが「ブラ下げた」ヤマト運輸や日本郵便などに代表される宅配業者によって、実現されている。

 実はアマゾンの本質は、このロングテールという「神話」においてではなく、この徹底した「外注」においてこそ発揮されている、というべきである。なぜならアマゾンの基本戦略は、「店舗」ではなく「販路」に徹したことにこそあるからだ。私がこの戦略の本質について示唆を得たのは、かつて(それこそ『マス・ファッション』を著した50年前に)「チェーン理論」の極めて忠実な徒であったことがある、からである。今思えば「チェーン理論」のエッセンスはひと言でいえば、「販路に徹する」ということであった。

「販路」に徹する以上、可能な限り、急速に・規模を拡大すべきである。なぜなら「販路」とは、容易に模倣され・比較され得るものであるからだ。である以上、先に占拠してしまうことこそ「販路」という戦略の要諦でなければならない。それが「急速出店」という戦略であった。それを支えるものこそ中央集権・マニュアル型組織であった。

 といえば、地理的な「無制限」は、仮に急速出店と本部中心組織で実現し得たとしても、面積有限な「店舗」である以上、無制限な「品揃え」の方は、不可能であった、というものがいるかもしれない。だが、そうではない。「チェーン理論」は、その点についても抜かりはなかった。

 われわれはかつての「流通革命」が、ビッグストアによって進められたことを知っている。では「ビッグストア」とは何か。有限な店舗面積を可能な限り大きくして、総合的な品揃えをする業態であった。その出店を急速にすれば、面積は一挙に増える。それは当時においては無限に近い品揃えを、無限に近いエリアに届ける、最適無二の方法ではなかったか。

 だから今、アマゾンが最も深刻な打撃を与えているのは、そのような「チェーンストア」である。これは私論ではない。ウォルマートこそ、その何よりの実証である。

 だがアマゾンによって判明したのは、「販路」という戦略を採用した以上、それをウォルマートやかつての日本のビッグストアのように、営々と「自前」でやるのではなく、他人のふんどし?を徹底的に利用するべきだ、という事実である。お気付きだろうか。アマゾンは、「ネット」という手段もまた自前ではなく、他人のふんどし?を借りている。アマゾン本の著者たちが口々に賞賛するロングテールこそ、ネットと「ブラ下がり」借用によってこそ、実現している。もちろん、アマゾンは全てを「借用」しているわけではない。その物流センターのシステムと配置は、アマゾンの独創である。

 だがその「独創」ほど、アマゾンの本質を雄弁に物語るものはない。なぜなら物流センターとは、モノを「通過させる」センターである。いかにモノをそこに滞留させないか、それこそが「物流通過センター」という施設やシステムの任務である。店舗のようにモノは、そこに滞留しない。

 だがモノが滞留しない、可能限り素早く通過してゆく……ということこそ「販路」の理想、あるべき姿ではないか。アマゾンは今、可能な限り、それを実現している。例えばアマゾンのロングテール実現を支える無数の古書店は、文字通り汗牛充棟、在庫の山である。全国の古書店の抱える在庫の量を想定してみよ。だがその在庫の多さこそ、アマゾンのロングテールを下支えしている。これまでもセミナーで半ば冗談に、いずれアマゾンはドローンで任意の寿司屋から出前の寿司を届けることになる、といってきた。ではその量も種類も膨大でかつ新鮮でなければならない寿司ネタは、ドコにあるか。アマゾンの物流センターにあるのではない。寿司屋にある。全国の無数の古書店や寿司店が在庫を負担することで、そのロングテールを実現しているのである。

 

島田陽介先生のメールアドレス shimad@msb.biglobe.ne.jp

本稿は島田陽介先生のアドレスにアクセスした方に「今月の提言」の形で送っているものの加筆訂正版です。