(1)かつてスーパーマーケットが圧倒的に支持されたのは、そのワンストップショッピングという「内容」故であることは確かだが、同時に「セルフサービス」という「形式」こそ、真に支持される理由ではないか、と思う。というのも、ワンストップショッピングという「内容」そのものは、往時の商店街でも可能だったからである。

 いやちょっと気の利いた商店街なら、例えば「お惣菜」は、数種類の専門店があった。お豆腐屋、天ぷら屋、煮物屋……など。とすれば当時のスーパーマーケットのワンストップショッピングという「内容」そのものは、さほどのものではなかったのではないか。逆に「セルフサービス」という「形式」は、どの商店街でもおよそ不可能な、当時は全く「新しい形式」だった。

(2)その後、セブン-イレブンが圧倒的に支持されたのも、その品揃えという「内容」より、「コンビニ」という「形式」だったのではないか。というのも出発当時のセブン-イレブンは、ほとんど全てナショナルブランドで品揃えしており、特に目立った商品はなかった。にもかかわらず支持されたのは、小型店で・近所で・間に合う、という「形式」故だった。それは「内容」への支持というより、「形式」への支持と見なすべきであろう。

 もちろんセブン-イレブンはその後、ストアブランドを増やし、それが支持の原因になった。というのも小型店・近所といった「形式」すなわちコンビニそのものは、セブン-イレブンの独占ではなくなったからである。

 だがその場合でも、セブン-イレブンはストアブランドを絶えずバージョンチェンジしている。おにぎり、コーヒー、おでん……は絶えず変わっている。「おいしいものほど、飽きられる」とは創業者の金言である。だがおにぎり、コーヒー、おでんという「内容」そのものは、変わっていない。変わっているのは、それを絶えず「変化」させるというその「形式」である。

(3)衆知のように、アマゾンの「内容」は、無制限である。ただしストアブランドもピービーも、ほとんど皆無といっていい。だからその支持の理由は、アソートメントにもストアブランドにもピービーにも、ないことは確かである。支持された圧倒的な理由は、ネット販売という、店舗とは根本的に異なる「形式」故である。ここでも重要なのは「内容」ではなく、「形式」である。

(4)イオンのショッピングセンターが支持される理由もまた、「ショッピングセンター」という「形式」にある。かつて曲学阿世の学者たちが騒いだ「コンパクトシティ」は、夙に私が指摘したように空論であった。モデルといわれた富山や青森でさえも、コンパクトシティ化に失敗したといわざるを得ない。なぜか。イオンのショッピングセンターが実現した「郊外化」が支持されたからである。これも「形式」である。

(5)逆の例を挙げよう。ある時期、何社かのデパート企業が好成績を収めたことがある。だがその好成績の理由は、ディベロッパーとしての好成績か、さもなくば、外国人客という浮動かつ外的な要因によるもので、「デパート」が支持された結果とはとてもいえない。

 だがその理由は、決して「デパート」の「内容」である、さまざまな「ショップ」にあるのではあるまい。なぜならその「ショップ」そのものは、ショッピングセンターに出て好評であるからだ。問題はデパート直営の「ショップ」にある。だがそれに往時の支持が見られないのは、デパートのマーチャンダイジング力が落ちたからとはいえない。

 ここで問題なのはむしろ「デパート」という、かつては圧倒的に支持された「形式」そのものにある。「デパート」という形式がもはや時代遅れになってしまったため、せっかくのマーチャンダイジング力が発揮できなくなった、のではないか。

(6)これは流通業ではないが、スマホもまたその「内容」ではなく「形式」にこそ支持が集まっている、というべきである。なぜならスマホの「内容」は、人さまざまなアプリを導入して利用している。だが人々は、誰しもスマホという「形式」そのものは利用しているからだ。

 しかも電車に乗ればすぐ分かるが、座席に座っている人のほとんどが、寝ている人を除き全員スマホをいじっている。私1人だけが、それらの人々を観察しているか、新聞雑誌書籍を読んでいる。そこまでスマホという「形式」は、時代のスタイルになっている。スマホはアマゾン他のネット販売と、双璧というべきである。

 日本ではアマゾンで生鮮食品を買う人は米国ほどいないだろう、という楽天的な説を述べるものがいるが、むしろ逆である。生鮮食品こそ、鮮度が命だからネットで買うものが増える。生鮮食品こそ、その都度、店に買いにいくこれまでのスタイルが、今後敬遠される可能性がある。生鮮こそ、ほしいと思ったときに手に入れたいものだからだ。

 

 なぜ「内容」より「形式」にこだわるか。それは人々は「生活」そのものについては、それほど変化を求めていない、求めているのは、その生活の実現の仕方すなわち「形式あるいはスタイル」だと思われるからである。

 スマホがそのいい例だ。スマホで利用している「内容」そのものは、かつては手紙や電話や会話で済ましていたのとよく似た「内容」である。それを、スマホという「新しい形式」を借りてやっているのではないか。もちろんスマホがあるが故に生まれた新しい「内容」もある。だがそれが仮に、今日手作りした夕食という「内容」なら、「内容」それ自体にはなんの変哲もない。ただそれをスマホで伝える、という「スタイル」が新しく加わっただけだ(もちろん私には、夕食の写真をLINEで送ることなど荒唐無稽と思われるので、決してやらないが)。それはネットで買う「モノ」それ自体に大きな変化がないのと同じである。ZOZOTOWNでファッションを買うというとき、変化しているのは「ファッション」という「内容」ではなく、ネットで買うというその「形式」でしかない。

 だがこの事実は、新しいイノベーションを起こすとき、「内容」が新しいだけでは説得力に欠ける、ということを示唆する。いやむしろ「内容」はこれまでと大して変わらなくても、「形式」が変われば、それはイノベーションになる。Amazon Goは、コンビニと同じ、いや多くのコンビニ、少なくとも日本のセブン-イレブンとは比べものにならないくらい「内容」も「形式」も貧弱極まるものでしかない。にもかかわらず話題になるのは、そこに何らかの新「形式」を予感したいものがいるからである。

※この原稿は島田陽介先生のアドレス宛に、メールアドレスを送付した方に毎月不定期に送られる「今月の提言」から抜粋したものです。