芝麻信用:ジャック・マーが望んだ「信用システム」

「アント」5章の冒頭で描かれているように、ジャック・マーの以前からの望みは、中国に「信用システム」を構築することでした。アリペイを作ったのも、見知らぬ売り手と買い手が互いを信用して商品を売買するための仕組みを作るためです。

 アント社はアリペイの運営を通じて、人々の信用に関する膨大なデータを蓄積してきました。それを可視化し点数化したのが「芝麻信用(ゴマ信用、セサミクレジット、ジーマクレジットなどと表示されています)」スコアです。CEOのEric jing(井賢棟)によると、ゴマと信用は似ているそうです。どちらも見た目は小さいが大変に重要なもので、蓄積していけば大きなものになるからです。そのこつこつと積み上げていく信用を可視化し点数(スコア)化することで、それまで中国社会に不足していた「信用」というものを皆が持てるようにする狙いがありました

 では、その信用スコアはどのようにして算出されるのでしょうか。芝麻信用では経歴、契約履行能力、信用履歴、人間関係、行動傾向という5つの指標に基づき、個人の信用の全貌を描き出すためのモデルを確立しました。この信用スコアは最高が950点、最低が350点。点数が高いほど信用レベルが高く、契約不履行リスクが低いことを表します。そのため、高スコアの人はホテルやレンタカーなどのデポジットが免除されるなどの厚遇を受けられます。

 現在では、このスコアに対する依存が高まっており、先日、NHKで放送された芝麻信用に関する番組(2019年2月12日クローズアップ現代『個人情報格付け社会~恋も金回りもスコア次第!?~』)では、婚活サイトで相手とコンタクトを取るかを決める際にまず芝麻信用の点数を聞くという女性が登場していました。

 芝麻信用では政府とも連携しているため、2018年11月に発表された北京市の「誠信個人分」(信用個人スコア)などと混同して語られることもありますが、別個の存在です。

「中国に足りないのは金融機関ではなく、信用システムだ」とジャック・マーは言いました信用評価システムが不備なために、人々は売買や金融にアクセスできず、経済的成長のチャンスが得られなかったからです。アントフィナンシャルでは人々の信用を評価するシステムを確立したため、融資における「申請3分、審査1分、関与人員0人」という「310システム」を生み出しました(「アント」168頁)。それまでの数カ月かかるような与信期間から考えると驚くべき進歩です。

 アリババグループでは、そのふんだんなデータ量を背景に、AIや量子コンピュータの研究に主眼を置いた研究機関「達摩院(Damo Academy)」を設立し、今後もデータの有効活用に前進していく姿勢を示しています。

余額宝:毎日の小さいが確実な喜びを市民に教えた

 余額宝は、アリペイアカウントの残高を利用し、一元からMMFを購入できるという商品です。この商品はアリペイの大きな“売り”になっています。その人気を受けてか、QRコード決済の強力なライバルであるウィーチャットペイも、2018年11月に「零銭通」という余額宝と類似のMMF購入サービスを始めました。

 余額宝は天弘ファンドとアントフィナンシャルが提携し開発した商品で、この商品に関しては、「アント」の第3章の冒頭に余額宝ユーザーのこんな声が挙げられています。

「私が1日で一番うれしくなるのは、スマホでアリペイを開いて残高がまた少し増えているのを見るときです。ほんの数角(1角=約1.6円)でも」

 このように気軽に資産運用でき、資産運用中でもアリペイの支払いに資金を利用できる点が受け、余額宝はアリペイ躍進のけん引車となりました

 余額宝は、わずかな額でもあっても資産運用すれば、毎日、小さいが確実な喜びをもたらすことを一般市民に教えました。このサービスが出来上がるまでの苦労話は「成功法則」の第7章に詳しく書かれています。この商品ができるまでには、多く苦難と天の采配とも言える偶然がありました。天弘ファンドは余額宝を始めるまでは、ほぼ無名の弱小ファンドに過ぎなかったのに、余額宝によって、中国でもトップレベルのファンドに成長したのです。この道程はさながら「プロジェクトX」です。中国の経済成長の鈍化が叫ばれているが、瞬く間に芋虫が蝶に変身するような物語は、やはり中国経済の強みを物語っていると言えるでしょう

貨幣がなくなった後の社会

 ここまで「アント」「成功法則」の2冊の書籍からアント社のサービスについていくつかご紹介してきましたが、一つ一つのサービスを見ているだけではアント社の目指すものは分かりにくいかもしれません。アント社の価値の中核は、決済を通じて集めたデータでより多くの人が便利に社会生活を送れるようにする環境を整えつつある点にあると思われます。この2作品を翻訳していて強く感じたのは、私たちは現在、金銭を介した社会生活を行う上で大きな変化の時期を迎えているということです。今まで当たり前であった貨幣という存在が、ジャック・マーが言うように5年でなくなれば、どのような変化が起こるでしょうか。細かいことを言えば、財布のデザインが全く変わるでしょう。もしかしたら、財布や定期入れ等という存在も消えてしまうかもしれません。防犯や警備という概念も変わる可能性があります。

 

 昨年から一部のネットユーザーの間で広まっている「中国すごい」ブームを、単に驚いたり、「それに比べて……」と卑下したり自虐的になったりするのではなく、この2冊を通じて、その「すごさ」の内実を細かく知ることで、日本の発展につながるヒントをたくさんの人が見つけてくだされば、幸いです。

(永井麻生子:『アントフィナンシャル 一匹のアリがつくる新金融エコシステム』、『アント・フィナンシャルの成功法則』訳者