第七十二代横綱・稀勢の里が引退したことが大きな話題となっている。今どき、ある競技の1選手(力士)が引退するだけで新聞の一面を飾り、ニュース番組がトップで報じ、ワイドショーが大きく特集するのは珍しい。稀勢の里という横綱の人気もあるが、大相撲そのものの人気の表れでもあるだろう。

 大相撲は、野球中継やサッカーJリーグがいつの間にか地上波からBSやCS放送に変わり、フィギュア・スケートも日本の主力選手が出場しない大会はBS深夜放送になる中、NHK午後の地上波で年に6回変わらず放送されている。今や大相撲だけが通年で地上波放送されるスポーツ競技となった。それ故、人の話題にも上りやすく、また国技と称されることも多いスポーツだ。

実は「国技」として定められているわけではない

 称される? 相撲はよく国技と称されるが、決して国技として文部科学省などによって定められているわけではないのをご存じだろうか。

 発端は明治42年、両国に「国技館」ができたことに始まる。

 それまで大相撲は江戸時代から、両国にある寺院「回向院」で興行のたびに仮の小屋を建てて行い、終われば小屋は壊していた。

 しかし、それでは雨天のときに不便が生じるなどさまざまな問題があり、大の好角家だった板垣退助の尽力によって相撲の常設館が作られることになる。そして完成した折、板垣は「尚武館」と命名しようとしたものの、「尚武(武を尊ぶ)」を「勝負」と勘違いした相撲界から「勝負は土俵上で行われているから違う名前がいい」と冗談のような反対に遭い、たまたま作家で相撲好きの江見水陰という人が初興行披露文に書いた「そもそも相撲は日本の国技」という一文から「国技館」と名付けられることになった。

 そうなのだ。国技と呼ばれるようになったのは、新設の常設館が国技館と名付けられたからだ。

 なんという逆転の発想! 実は大相撲は明治の初め、文明開化の折には「裸体にふんどし一丁は国の体面を汚す」と相撲禁止論まで飛び出し、存亡の危機にさえあった。それが国技館と名付けて一転、大相撲は国技という概念を与えられることで絶対的地位を手にした。

 これ、いかに命名が大切かを表すエピソードだろう。最近ではさまざまな競技場や体育館に企業の名を冠し、そのスポンサードが終わるとまた安易にその名前を変えたりするが、名前1つでブランディングを左右する、とても顕著な例だ。

明治までは興行の面が強く、八百長が普通だった

 しかし、ナショナル・ブランドとなった大相撲はそれまでなかった苦労もしょい込み、さまざまな変革を迫られるようになる。

 

 作家の高橋秀実が自ら相撲部屋に赴いてまわしを巻いて稽古に参加してまで書いた本「おすもうさん」(草思社)にそのあたりは詳しいが、大相撲は明治までは「興行」の面が強く、しかもスポーツという概念は明治以降に日本に入ってきたもの。故に江戸から明治初期において相撲は多分に見世物であり、勝負の基準もあやふやで、八百長も当たり前というか、八百長をしないことは逆に義理人情に欠く男気のないものだと、爪はじきにされることだったんだとか。そもそも八百長という言葉自体、相撲から生まれたという。

 さらに、今では「時間いっぱいです」と行司によって仕切られる立ち合いまでの時間も、昔は1時間や2時間かかることもザラ。だからこそ酒や弁当やらを飲み食いしながら、まるで観劇でもするかのように相撲を見る、という文化が生まれたのだ。