
まだ「経営の神様」にはなっていなかった
私は白黒テレビに魅せられて松下電器に入社した。
昭和30年代、松下電器、そして松下幸之助さんはあまり知られていなかった。
系列電気店のご主人を集めて幸之助社長の講演をすることになった。名古屋の鶴舞公会堂に動員する責任が現地営業所にあったが、計画通り集められないので、関係会社の日本ビクターから歌手の市丸さんを呼んで動員した。
幸之助さんはいまだ「経営の神様」にはなっていなかった。松下電器自体も社員数8000人でその後、ピーク時の36万人からみれば5分の1の規模だった。
私が46歳で北海道営業所長になったのは昭和57年だった。
常務取締役とゴルフをしていた日は、幸之助さんが帯広市へ講演で来られる日でもあった。常務から「創業者が来るのに何をしているのか。すぐお迎えに現地へ行け」と強く言われた。幸之助さんが来られるときはにぎにぎしく迎えて、帰られるときもにぎにぎしく送るのが常識であった。
私は来道されることを知ったとき、幸之助さんの秘書に確認をしたが、秘書から「赤字の北海道支店はしっかり仕事せよ」と忠告されていて何も対応しないつもりでいた。
常務から「明日の帰りだけでもしっかり送れ」と忠告され、現地の販売会社に電気店の動員をして帯広空港で見送りすることを指示した。
空港で幸之助さんから皆さんにといって、ポーンと財布ごといただいた。10万円が入っていた。財布ごと渡すことは想像以上に気持ちが伝わってきて、感激した。
不振要因を自ら確認する姿に感銘を受けた
創業者の話は経営方針発表会をはじめとして、会議の中でしか聞くことはなかったが、昭和60年、幸之助さんの信頼の厚い佐久間営業本部長のとき、初めて門真市本社の2階で仕事をすることになった。
創業者・幸之助さんと同じ建物にいることに緊張感と喜びの日々であった。
幸之助さんの部屋に1回だけ入ったことがあった。それは当時、ナショナルコーヒーメーカーの国内シェアが30%から22%まで下がっていて、営業本部長に説明を求めたときだった。ちょうど、商品企画部長が不在で「三浦君、付いてこい」と言われて、創業者・幸之助さんの部屋に行った。
佐久間本部長が説明されたが、驚いたのは部屋に各メーカーのコーヒーメーカーが数多く並べてあったことだ。既に幸之助流の販売不振要因を究明されている感じがした。そして、自ら確認する姿に感銘を受けた。
昭和39年の『熱海会談』といわれる取引代理店、販売会社を集めた会談が開催されたが、その2年前の昭和37年、松下電器の営業体制でセールスプロモーター(SP)制度がスタートしている。
名古屋市の中区、南区、瑞穂区の3区を担当するSPの仕事が私の営業職のスタートとなった。
名古屋市3区の全ての道路をトヨタ パブリカ(空冷800㏄)を与えられ、巡回した。
電気店と看板のある店を全て訪問して商売状況、経営状況を聞く任務であった。
既に幸之助さんは家電不況市場の乱れを調査して実態を掌握されていたように思う。
熱海会談は予定日程を1日追加して、業界再建への結束の場とされたと考える。「共存共栄」の言葉が素晴らしい。家電成長期での初めての不況を乗り越えることができた。