創業のカジュアルイタリアンが時代の波に乗る

 

――遠山社長が飲食業に親しむようになったきっかけはどのようなことですか。

 学生時代、母が自由が丘にあった焼き肉店を手伝っていて、自分も部活動の練習が終わってからそれを手伝うようになったことです。23時になると母が店から帰るので、その後の深夜の時間を自分の好きな営業スタイルで、自分がおいしいと思うものを売っていました。

 そんなことをしているうちにお客さまが大層喜んで、たくさん付いてくださり、「あなたがいるから店にくるのよ」と言われるようになりました。こんなことを経験しているうちに、自分は性格的に人に喜んでいただくことが好きだと思うようになり、飲食業をスタートしました。

――どのような飲食店でスタートしたのですか。

 大学卒業後は総合商社に入社しましたが、内定と同時に仲間と開業の準備を始めました。退社してから1993年5月に会社を設立し、カジュアルイタリアンの「レッドペッパー」を東京・表参道に出店しました。この立地は前職の近くであり、前職の人たちにも来店してほしいという思いもありました。

――当時は、カジュアルイタリアン全盛ですね。1990年にロイヤルが「イルフォルノ」を六本木に出店してから、類似の業態が続々と出店していきました。

 当社でもカジュアルイタリアン、ワインバーを手掛けて、時代の波に乗ったという感覚があります。洋食にとっては恵まれていて、当時は焼き肉に注目する人は多くなかった。

 1998年6月にアメリカ・ロサンゼルス(LA)に「焼肉まんぷく」をオープンしましたが、これはLAにモールを持っている先輩から「焼き肉店が抜けたのでお前やらないか」と声を掛けられたのがきっかけです。

 アメリカに出店することになったのは、もともと海外進出の夢を描いていたからです。日本で現場に入っていたので、仲間と「このままだと海外に行けなくなるよね」と話すようになり、危機感が芽生えて「海外に仕事をつくる」という発想で動き出しました。

 当社は今もそうですが、飲食の事業を進めていくという発想ではなく、人材を軸にして事業を組み立てることを考えています。アメリカに進出したのは、その当時、社内に「海外に行きたい」という人材が増えてきたという背景があります。

 また、国内では10店、20店ほどの規模という目標を割と早く達成することができてしまいました。

日本のおいしい焼き肉を忠実に再現し人気を博す

 

――アメリカではその後、どのように展開を進めていますか。

 現状、カリフォルニアに6店舗出店しています。これまではLA内で可能性のある立地を探し出して、日本人やアジア人の比率か高いことを想定して出店を検討してきました。

 客単価は今45ドル程度。これは高くはなく、たちまちLAでは焼き肉の繁盛店となったことから、焼き肉店の経営者の皆さんは当社の店によく視察に訪れ、そして、同じような店が増えていきました。

 では、当社の店がどうして繁盛したかというと、まず、この客単価の店舗では接客する従業員の服装がTシャツとGパン姿という店が多い中、当社では制服を採用し、デザイン性の高い内装にしました。そしてゴマ油をはじめとした調味料を日本から取り入れ、味付けを日本の焼き肉店と同じものになるようにしました。こうしたことで人気を博して、LAでは日本人客3割、アジア人4割程度という客層が定着するようになりました。

――ミャンマーに「まんぷく」を2店舗出店していますが、これはどのようなきっかけからですか。

 それは当社で働いていたミャンマー人の男女が結婚して現地で飲食業を展開したいとお願いされたからで、現地の外食事情を教えてもらって共同で出店しました。

 これにより、東南アジア全体の市場を考えるようにもなりました。東南アジアの焼き肉は「牛角」さんが先行し相当頑張ってきて、高客単価の店、低客単価の店とさまざまあります。また、かなり上位の高客単価の店が個人店であったり、焼き肉店は意外に多くてバラエティに富んでいます。ただし、当社にとって、現状では東南アジアに力を入れて出店する段階ではないと感じています。

――日本の焼き肉業界は2001年のBSEで大変な経験をしましたが、どのようにそれを乗り越えましたか。

 焼き肉店は売上げが7割減となったのですが、これをイタリア料理店が支えました。会社全体で15店舗ほどを展開していましたが、一部店舗数を絞りました。

 回復させるために特別な対策を行いませんでした。料理・サービスをブラッシュアップするなど基本的なことを忠実に行うことで、しのいだというのが実態です。

 また、焼き肉にお客さまが戻りつつある兆しを見せたときに割引セールを行いました。これによってお客さまが7割程度戻ってきたという手応えがあり、このような経緯を経て今日に至ります。