満を持して93年11月、2号店の「杉並店」を開業、初年度で15億円を売り上げる。ダイエーや西友がバブルのツケを払わせられ急速に弱体化していったのとは対照的に、バブルが崩壊しても、ドンキには成長に向けて確かな道が開かれていった。

 安田もドンキの経営に専念し、95年から出店を加速、翌年には100億円企業となり、株式の店頭公開も果たした。これを機に、「公私混同」「役得」「不作為」「情実」「中傷」を禁止する「御法度五箇条」を定め、コンプライアンスも整えた。

 10億、30億、50億、100億と企業規模が大きくなる中で、節目節目で社内の体制を作り直し整えることが必要となる。ドンキはこの機を境に、安田の個人企業から脱皮し、組織として体裁を整え、97年にはドンキの存在を広く世に知らしめた「新宿店」がオープン、郊外から都心に進出、出店が加速する。

2000年前後に逆風が襲い掛かる

 96年度113億円だった売上げも2000年度は734億円となり、破竹の進撃が続き、事業が急拡大した。しかし、好事魔多しで、逆風が吹いて存亡の危機ともいえる事態が次々にドンキを襲う。

 99年6月に出店し深夜3時まで営業していた「五日市街道小金井公園店」で、騒音問題で反対運動が繰り広げられ、周辺住民から午後11時閉店を申し入れられた。大規模小売店舗法(当時)に抵触しなかったが審議の対象となり、11時閉店が勧告され、法的拘束力はなかったものの、その条件をのんだ。この問題は他店にも飛び火し、マスコミにも取り上げられ問題視され、バッシングを受け、ドンキの強みである深夜営業を揺るがしかねない事態となった。

 安田は、店舗周辺の環境整備や警備体制の強化など正攻法で対処することで鎮静化したが、大企業になればなるほど避けて通れない企業の社会的責任を考えるきっかけともなった。

 その後、2000年代にはいるとITバブルが崩壊、景気は低迷するが、これを好機ととらえて、人材確保に動き店舗展開も積極的に行った。00年には04年度まで出店20店以上、売上げ2000億円、経常利益200億円、ROE(株主資本利益率)20%を目指した中期経営計画を策定、店舗網も全国に拡大し、ほぼ目標を達成した。

 しかし、再び試練が襲う。04年12月、店舗が連続放火され、「浦和花月店」では従業員3人が亡くなるという不幸に見舞われた。放火事件で店舗に責任がないにもかかわらず、マスコミは、迷路のような売場が火災を広げたといった論調でドンキをたたいた。そのような事実はなかったが、防災作りにも取り組み信用回復に努め、「世界一安全で安心な楽しい業態」を目指した。

 幸い売上げに影響はなかったが、いわれのない災難でも、真摯に対応することでピンチを切り抜けた。そして安田はさらなる飛躍に向けて新たな手を打つ。05年に、安田のワントップから初めて副社長と専務を置くことにし、40代の生え抜きの2人を抜擢、それぞれ営業本部を任せて競わせ、その後の発展の原動力となった。CFOの専務には中途入社の社員を登用した。専務だった大原孝治は社長となり、CFOの高橋光男はいまも財務を支えている。

停滞と、新たな一手の模索

 右肩上がりの急速な成長を遂げてきたドンキも、06年度は13期ぶりとなる10%台の伸びにとどまった。04年には小型店の「ピカソ」を開発したが思うようには伸びず、ドンキモデルの限界も感じ、新たな成長のエンジンを探そうとしていた。

 目を付けたのは「中食」マーケット、惣菜・弁当の有力チェーン「オリジン東秀」の筆頭株主となり、共同で事業展開をもくろんだが、オリジンの反発を招き進まない。そこで、TOB(公開株式買付)を仕掛けたが、イオンも白馬の騎士で参戦、結果的にはイオンの傘下に入ることなり、中食マーケットの参入は果たせなかった。

 その後、中食市場には、店内にキッチンを備えた「パワーコンビニ情熱空間」を開発し、06年8月から店舗展開するが、運営コストが膨らみ、08年までに事業から撤退した。コンビニ事業には、13年から「驚安堂」というブランドで再びチャレンジするが、これも撤退。驚安堂はグループ企業のライラックが運営するDSの食品スーパーの店名として引き継がれ、現在4店舗を展開しているが、試行錯誤中である。

 ちなみに、ピカソという店名も、独創的な絵画で知られる巨匠ピカソからの由来で、独創性を重視するドンキらしい命名である。「パワーコンビニ情熱空間」の「情熱」は、ドンキのPB「情熱価格」にも用いられており、熱い思いが伝わってくる。驚安堂は、文字通り驚きの安さで低価格をアピールするドンキの造語である。

 07年には、ホームセンターのドイトとGMS(総合スーパー)の長崎屋を買収した。同社の再建には多くの困難がともない時間を要したが、そのときの経験が、昨年11月、ユニー・ファミリーマートホールディングスと資本・業務提携し、ユニーのGMSの不振店舗を再生させることに大いに役立った。

 ドンキでも連戦連勝で全ての事業がうまくいったわけではない。失敗した事業もある。ただ、敗者復活戦を認め、失敗を恐れず挑戦できる企業風土があり、自由闊達な企業の活力の源泉になっている。それも強みの1つである。

海外進出とIT、「パン・パシフィック・インターナショナル」へ

 その間、本業は順調に成長を続けていたが、10年度の売上げは1.4%増と創業以来最低の伸び率となり、成長にブレーキがかかりスローダウンした。年商は4875億円となり、大企業病の兆候も見られた。危機を感じた安田は、改めてドンキの考えを周知徹底させるため、本格的な研修や企業理念集「源流」の作成などを行い、組織の内部固めに取り組んだ。

 こうした取り組みも奏功し、再び2桁増の増収となり、14年にはグループで300店舗を超え、再び、勢いを取り戻していった。急激に増大していたインバウンド需要の取り込みにも、早くから外国語が話せるスタッフの導入、外貨での精算、海外でのサイトを通じた予約販売など次々と対策を打ち出した。そのため、今ではアジアを中心にインバウンドの御用達店舗となっており、爆買い現象が影を潜め、全体の需要が沈静化した今でも増収基調が続いている。大阪の「道頓堀御堂筋店」と「道頓堀店」では売上げの約65%、東京、名古屋、福岡の都心部で40~50%を占める店も目立ち、全店でも8.7%がインバウンドによるものだ。

 14年には、自社の電子マネー「majica(マジカ)」の発行にも踏み切った。会員数は年々増え続け、700万人を突破、1人当たりの売上単価が高いマジカの売上構成比は約3割に達している。

 こうして、ドンキの辿ってきた軌跡を振り返ると、安田が素人で流通業界に飛び込んだことで、従来の業界の常識にとらわれることなく、顧客ファーストを掲げて、圧縮陳列をはじめとする奇手を連発し、真逆の手法の逆張り経営で、日本有数の流通企業にのし上がった。

 異色の経営者として知られた安田も、15年7月、代表権のない創業会長兼最高顧問に就任し第一線を退き、古参で生え抜きの大原にバトンタッチし、次代は新たな世代に委ねられた。

 だが、安田は来年1月には取締役に復帰し、海外事業で陣頭指揮を執るものと思われ、2月にはパン・パシフィック・インターナショナルホールディングスと社名も変更し、環太平洋地域での事業の拡大にも力を入れていく。

 その海外事業では、17年12月、「DON DON DONKI オーチャードセントラル店」を出店し、東南アジアに進出した。店内ほぼ全ての商品をメイドインジャパンもしくは日本市場向けの商品で構成する「ジャパンブランド・スペシャリティストア」をコンセプトとした東南アジア仕様の新業態だ。

 ドンキ流の店内演出や日本酒のバーカウンターの設置などによるアミューズメント性あふれる店舗空間で、食品、日用品、化粧品、バラエティグッズなどを、シンガポール国内におけるプライスリーダーを目指した圧倒的な低価格で提供している。好調なスタートを切り、18年6月には2号店を出店、19年年初には、タイのバンコクに「DON DON DONKI」を核店舗にした商業施設をオープンさせる予定だ。

 ドンキが海外事業を手がけたのは、2006年2月にさかのぼる。ダイエーのハワイの子会社の株式を譲り受け現地法人を設立し、オアフ島内の4店舗を取得したのが始まり。その後、13年9月、カルフォルニアやハワイに11店舗展開している日系スーパーのマルカイ コーポレーションを傘下に収め、17年6月には、ハワイで「タイムズ・スーパーマーケット」を24店舗展開するQSI社を買収した。

 今後は、再登板する安田が中心となって環太平洋地域で事業を進め、このエリアにおける有力企業として発展していこうとしている。名実ともにパンパシフィック企業になるためには、さらなるM&Aも予想される。

 安田は一族に事業を継がせるつもりはなく、安田家は創業家としての役割を果たしながら、社員にはドンキのDNAを未来永劫に伝えていくことで、持続的成長を目指そうとしている。台頭するECに対してネットの利便性とは異なる土俵で差異化を実現できているドンキ。普通の企業にならず、変わらずDNAを継承し、時代の変化に対応しながら、新たなドンキ流の価値創造を生み出すことができれば、さらなる発展も約束されるだろう。