今年、11月に開業したMEGAドン・キホーテ港山下総本店。

 ドンキホーテホールディングスは今秋、大手スーパーのユニーを傘下に収め、売上げでイトーヨーカ堂を抜いて、イオンリテールに次ぐ2位に浮上した。名門企業であるユニーを、新興の業界の異端児とも言えるディスカウンターのドンキが呑み込んだ、下克上の買収劇は衝撃的な出来事で、大げさに言えば、流通の歴史が上書きされ、新たな時代が始まる予兆でもある。

 そのドンキは商品を積み上げ、POPが氾濫する「魔境」と呼ばれるダイナミックな売場や、スポット仕入れによる安さの追求、チェーンストア経営とは真逆の現場主導の店舗運営などにより、29期連続増収増益を続けて急成長を遂げてきた。

ドンキ開店から10年前の西荻窪に始まる

「ドン・キホーテ」の1号店が東京都府中市に出店したのは1989年3月。小売店舗らしからぬ一風変わった店名は、スペインの作家セルバンテスの名作の小説『ドン・キホーテ』から。主人公であるドン・キホーテは権威に向かい常識を打ち破る考えや行動を繰り広げるが、それは創業者の安田隆夫の思いでもあり、独自の道で既存の巨大な流通企業に挑むという決意が込められていた。

 それにさかのぼること10年余り前の78年、安田はまったく商売の経験はなかったが、29歳の時、たった一人で「泥棒市場」を、東京・西荻窪に出店した。

 何とも怪しい店名であるが、倒産品、返品商品などを扱うバッタ屋から現金仕入れで販売するディスカウントストア。店は18坪しかないので、タダ同然で仕入れた商品が入った段ボール箱を山のように積み上げ、箱に小窓を開けて商品を説明する手書きのPOPをつけて深夜12時まで営業した。

 売場はまさしくジャングル状態で、ドン・キホーテの1坪に100アイテムの商品を陳列する「圧縮陳列」の原点。安田が商売の素人であったことから、業界の常識にとらわれることなく、制約のある中で生み出した新手だ。泥棒市場に行けば格安で面白いものが手に入ると評判を呼び店は繁盛した。

 多くの人が買物する昼間ではなく深夜に注目したことも結果的に功を奏した。ライバルのいない深夜営業で若者を取り込み、結果的に小売りでは手つかずだったナイトマーケットを新たに開拓した。

 こうした手法は、まさしくドン・キホーテ的行動だったが、彼と違うのは空想譚ではなく現実で、実際多くのお客の支持を得たということだ。

 当時、禁じ手とも言える逆張りの無手勝流の商法とも思えるが、その裏には緻密な計算があった。安田は、冷静にお客の行動や心の動きを読んで分析、「勘」と「感受性」を磨きながら、店作りの精度を高めて、さらに顧客の支持を高めていった。そこに、顧客第一のドンキが掲げる理念「すべてはお客様のために」という源流も見出すことができる。

 その後も、店には連日お客が詰めかけ、売上げも好調だったが、泥棒市場は単独の繁盛店の域を越えられず、多店舗展開は不可能だと悟り、83年、バッタ屋問屋のリーダーを設立した。従来のトラックで全国を回る巡回販売ではなく、ここでも業界の常識を打ち破る電話とファックスによる営業を採用したことで大当たり。売上げはあっという間に50億円に迫る規模になり、かなり儲かった。

 だが、仕入れや販売ルートが特殊で大きな成長は望めず、卸売りでも事業の限界を感じる。安田は手に入れた資金と商品調達網を生かして、まだまだ可能性があるとにらんだナイトマーケットへ挑むため、再び、小売りの世界に戻り、前述したようにドン・キホーテを開業したのだ。

従業員に裁量を与えたことで売場作りが成功

 安田は泥棒市場時代に培ったノウハウがあれば、成功間違いなしと考えたが、意に反して店の経営はなかなか軌道に乗らず、毎月1000万円もの赤字を垂れ流していた。だが、リードの事業も継続しており、安田は経営に専念できず従業員に店を任せていた。

 安田は手取り足取り売場作りを教えたが、彼らは常識的な売場作りとは真逆の「見にくく、取りにくく、買いにくい」という泥棒市場の売場をなかなか理解できなかった。その結果、まるで違った売場になってしまい、これは売れると思って自ら仕入れた商品も倉庫に眠ったまま安田の思い通りにはならなかった。

 悩んだ末にたどり着いた結論が、教えるのをやめることだった。エースで4番で監督ではなく、全員野球で従業員に任せることにしたのだ。仕入れを任せ、販売まで責任をもって最終的に売り切る。彼らは教えられるのではなく自ら考え体験することで、圧縮陳列や手書きPOP、仕入れ術を体得していった。

 しかし野放図に任せたわけではなく、最小限のルールを設けて、タイムリミットを決め、明確な勝敗基準を設定、思い切って権限を委譲して大幅な自由裁量権を与え、互いに競わせやる気を引き出した。

 この仕組みは当時、一世を風靡していた本部が主導するチェーンストア理論とは正反対のやり方だ。チェーンストアオペレーションは、店舗と品揃えを標準化し、多店舗展開には効率的なシステムだが、本部から商品が投入され、店舗業務もきめこまかく指示されることで、現場で働く人のモチベーションをそぐという負の側面がある。現場が主導する個店主義とチェーンストア理論は相いれないもので店舗運営の永遠の課題であり、その相克は今でも続いている。

 だが、ドンキは真逆の個店主義でマンパワーを最大限に引き出し、顧客の支持を得ていった。そしてそれは現場に大胆に権限を持たせるドンキのDNAとなった

 安田はこうして結果的に、小売りのメインストリームをことごとく否定することで、成功へのステップを登っていくことになる。1号店の府中店は、2年目から軌道に乗り始め、4年目の92年度には当初目標としていた年間売上15億円をクリアする17億8000万円となった。98年度には40億円を超え、1坪当りの年間売上高は2878万円という驚異的な坪効率となった。

 多店舗展開をにらんで出店したが、2号店を出すには4年の歳月が必要だった。適した物件がなかったこともあったが、内部を固めてさらに店舗運営のスキルアップを図ろうとしたのだ。この溜めが、今後の出店に欠かせない人材が育ち、運営ノウハウも熟成することにつながった。さらに、EOS(オンライン受発注システム)も導入し、発展のためにインフラ整備も整えた。

 時は折しもバブル期、多くの企業が本業以外の財テク、不動産投資、多角化に走ったが、安田はそうしたことには手を染めることをせず、内部固めに徹して、飛躍の時をうかがっていた。破天荒で、攻めの経営のイメージが強い安田だが、守りも得意で攻守バランスの取れた経営者なのだ。