デザイナーフーズ(株) 代表取締役社長 丹羽真清
 にわ ますみ●椙山女学園大学家政学部食物学科管理栄養士専攻卒業、1999年、デザイナーフーズ(株)設立、2010年、野菜のショールーム、ベジマルシェをオープン(~13年12月閉店)、同年、デリカフーズ(現デリカフーズホールディングス)(株)代表取締役社長就任、16年10月、日本ヘルスケア協会「野菜で健康推進部会」設立、17年、デリカフーズホールディングス(株)取締役未来創造最高役員就任。著書に『データが語るおいしい野菜の健康力』(丸善出版刊)、『おいしいものは体にいい』(エフビー刊)、『乳がんの人のための日常レシピ』(ブックエンド刊)

★講座は2019年2/20(水)19:00 ~ 20:30の予定

 

身近な人の生と死、野菜と健康、酸化を防ぐ抗酸化
そして、七色の力――命につながる食を求めて

 今から40年くらい前の話です。私は、外食産業のロイヤルホストに入りたくて、名古屋のチタカとロイヤルによる合弁会社の第1期生として入社したのですが、その時代はまだどこも仕事の上で男女平等という世の中ではなく、私は社長秘書になりました。

 そして、秘書をして3カ月ほどたったとき、社長に「私は秘書に向いていない、工場の品質管理の仕事をさせてほしい」と自ら申し出て、社長の弟さんの会社に移り、品質管理の仕事をさせていただくようになりました。

 そこで私は新しい品質管理の仕組みを作ったりしましたが、本当のところ、品質管理より商品開発をやりたくて、新しいタイプのレトルト商品を開発したり、いろいろな業務用商品を作り上げたりといった仕事をしました。

 要は、“作って出してクレーム”という商品ではなくて、まだHACCP(食品の製造工程における品質管理システム)がない時代でしたが「出す前からしっかりと品質管理を行った商品の開発をしたい」とずっと思っていたわけです。

 ところが入社8年目に、台湾に工場を造るから台湾に行けと言われまして、私は「行きたくない」と、今思えばとてもわがままな社員ですよね。「外食のことを考えればアメリカに行きたい。台湾に行くなら辞めます」と言いますと、社長からは「君には毎回、驚かされる」と言われまして、結局、男女雇用機会均等法が施行される前年(1985年)の3月に、均等法にあやかることなく会社を辞め、それから2カ月ほどアメリカへ遊びに行きました。

「もう、徹底的にやるしかない。食の勉強をし直そう」

 ただ、日本に帰ってきますと、前の会社の取引先の方がみんな「週に2日間でいいから来て」などというように声を掛けてくれましたし、野菜をカットして外食や中食産業に届ける事業を始めていた、「デリカフーズ」創業者の舘本勲武からも、「月に1回でいいから」と言っていただいて、そのうち、出社する日数が増えていきました。

 その結果、以後十数年間、100社近い食品メーカーの商品開発を個人事業者として行っていました。デリカフーズは、その中の1社でした。

 そんなふうに30歳で独立した後、42歳の時に結婚を決めたのですが、「結婚します」と私の両親にあいさつに行ったその翌日に、結婚相手が入院してしまったのです。

 その日、私は出張に行っていまして、帰ってきたら病院で彼はもうパイプにつながれた状態、お医者さんからは「余命3カ月」と言われました。彼はそのまま点滴だけでずっと何も食べられず、5カ月後に亡くなってしまいました。

 このとき、「私は今まで、食の業界で何をやってきたのか……」という後悔の念でいっぱいになりました。

 そもそも私が食の仕事を目指したきっかけは、高校2年生の時の英語の先生の言葉でした。

 女子校ですし、休憩中に教室でみんなそれぞれ好き勝手に何か食べていたら、授業時間になって入ってきたその先生がこう言ったのです。

「あなたたちはこれから子供を産む体です。自分の食べたものは全部自分の細胞になるんです。だから、いいかげんなものを食べちゃ駄目なんです」と。

 そう言って先生は、英語の授業をやめて食の話を1時間しました。とても印象的で、それがきっかけとなって、私は管理栄養士の大学に行ったんです。

 でも、私はその「思い」があって食の仕事をしていることをいつの間にか忘れていました。経済が右肩上がりでしたから、売れるものを要求され、私も「売れるものを作らなければ開発者の意味がない」と思い、「体にいい」ということは考えていませんでした。

 ただ、主人が亡くなった後も、当たり前ですけど、生活していくには食から離れられないし、毎日何かを食べなければいけない。そうしますと、何か食べ物を見れば彼のことを思い出すんです。ブドウを見ても、桃を見ても……。そんなふうに思い出すことから逃れられないのなら、「もう、徹底的にやるしかない。食の勉強をし直そう」と思いました。