小林氏(右)のスマホに続々と予約の電話が入る

 筆者は今年の8月23日に仙台市を訪れた。目的は、11月13日に開催される「第13回居酒屋甲子園全国大会」の東北地区代表を決定する「地区大会決勝」を見学するためであった(ファイナリストは、この次の審査で決定された)。

 そして、そこでの発表チームに強烈に感動した。それは青森市の「地雷也」である。東北地区大会決勝には5チームが登壇したが、地雷也はそのうちの2チームを占めた。そして、地雷也の1チームが東北地区大会で優勝した。これらの店舗を経営するのは株式会社ダブリューアンドダブリュー(本社/青森市本町、社長/小林達哉、以下W&W)である。

 そして、筆者は会場にいてW&Wのことを知るに及んで、W&Wの経営者・小林達哉氏と、その経営内容について大いに興味がかき立てられた。そして、9月に入り、筆者は自分の生まれ故郷でもある青森市に小林達哉氏と「地雷也」を訪ねた。

なぜこれほどのお客さまがやって来るのか?

青森市の歓楽街、本町のメイン通りにある「地雷也」1号店(2階)と4号店(1階)
ダブリューアンドダブリュー社長の小林達哉氏

 東北地区大会決勝で、地雷也の2店舗が発表したポイントは数多く挙げられるが、筆者が感動したのは、以下の3点である。

 まず、店の中で発生した従業員同士のもめごとを解決するなど「人間関係の構築」の仕組みを持っていること。「アルバイトファースト」と呼べるほどにアルバイトを大切にする環境をつくっていること。同じ出店エリアの飲食業者と「共同仕入れ」を行い、県外からも仕入れを行って、店のメニューのバラエティを広げて店の魅力を絶えずブラッシュアップしている、ということだ。

 経営者の小林氏は1992年生まれの26歳である。同社はこの8月に新規出店を行い、青森市の飲食店街である本町に4店舗ドミナント出店している。この経営者の若さと、賢明な店舗展開にも関心を持った。

統括料理長の田中隼人氏

 そして、W&Wの店舗は全てが繁盛店だ。会社の売上高は2018年9月期で2億5000万円(3店舗分の売上げ)。店舗別では、それぞれ25~30坪辺りで、それぞれ約9000万円、8000万円、7000万円という状況である。この売上げのレベルの高さは青森市内でほとんど類を見ないのではないか。

 青森市本町は、青森の歓楽街とはいっても、人通りはあまり多くない。筆者が小林氏を訪ねたのは金曜日で、取材の後、各店舗を訪れたところ、どの店も満席であった。外の風景と地雷也各店の繁盛ぶりの大きな落差を感じた。

「地雷也になぜこのようにたくさんのお客さまが集まるのだろうか?」――このような疑問が自然と生まれた。

15歳で飲食業に入り、17歳の時に仙台で起業

 まず、小林氏が飲食業を手掛けることになった経緯について紹介しよう。

 小林氏は、青森市本町で飲食業を営む母の下で育った。高校に進学したが半年で退学し、市内の飲食店でアルバイトを1年間行った。この時、アルバイト先の経営者や従業員、またお客さまからも大層、大事にされたという。

 そして、青森市よりももっと人口の多い都会で飲食業を起業したいと思い、叔父を頼って仙台市に渡った。10カ月ほど国分町の居酒屋でアルバイトを行い、定禅寺通りで「青森」に特化した居酒屋を開業した。2階の物件で、25坪30席。看板メニューは親戚のホタテ漁師さんからホタテを格安で仕入れて行った「ホタテの食べ放題、390円」であった。17歳の当時である。仕込み、営業、ビラ配りなど精力的に行い、1日の睡眠2~3時間で奮闘した。

 その結果、毎月現金が100万円手元に残るような日常となった。それに慢心してしまい、半年で売上げが急降下した。これではいけないと、鉄板焼きの店にリニューアルした。この店はいきなり繁盛した。しかしながら、オープンして1カ月後、2011年3月11日、東日本大震災が起きる。店が傾き、ドアも開かない状態となった。各テーブルにガス管を引っ張っていたが全部外れてしまった。

 小林氏は心が折れて青森市に戻った。19歳の時である。それでも、再起を願いながら、被災地に赴いて炊き出しをしてわずかながら事業資金を貯めた。

 仙台で店をリニューアルしたために貯金を使い果たしていた。そんな中で、祖母が「青森でもう一度頑張れ!」と融資をしてくれた。従業員も2人、仙台から呼び寄せた。

 そして、2011年6月。「地雷也」1号店がオープンした。28坪40席の店である。15歳の時に働いていた店の経営者が、物件と業者さまを紹介してくれた。仙台で使用していた鉄板を青森に持ってきて、鉄板焼き業態として開業したが、全く振るわなかった。青森には鉄板焼きを楽しむ文化がないと実感した。半月後、鉄板を外して、刺し身、枝豆、唐揚げといった、一般的な大衆居酒屋に変更した。そして、さらに、トラブルは続いた。

 オープンして半年もたたずに、仙台から呼び寄せた従業員が1人、仙台に帰ってしまった。そこで店は営業ができなくなった。1カ月間休業した後に、地元の調理師会に料理人をあっせんしてもらって再度営業ができるようになった。しかしながら、その料理人は荒くれで小林氏との不協和音は絶えず、営業状態も鳴かず飛ばずの日々が続き、料理人も辞めていった。