3月11日に開催されたハラールメニュー試食会の様子

埼玉・川越は「小江戸」と呼ばれ、「蔵造りの町並み」とともに「観光の町」であることをアピールしている。本連載「急増するインバウンド、食の多様性に備えろ!」の第11回は、この町で、まさにこのタイトル通りの活動をしている株式会社貴響(よしゆら)の代表取締役、長島貴子氏のことを紹介する。長島氏はこの中心部で明治11年(1878年)創業の寿司・日本料理店「川越幸すし」を経営している。また、これら一帯の「川越一番街商業協同組合」(組合員109)の副理事長に今年4月に就任。この立場からも、インバウンド対策の充実で、川越を観光の町として一層盛り上げようとしている。

川越はどのようにして「小江戸」「蔵造りの町」となったか

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 最初に、川越が今日のように観光の町を訴求するようになった経緯を解説しよう。

 まず、川越はなぜ「小江戸」と呼ばれるようになったか。

 川越は江戸時代を迎えて、川越街道と新河岸川の水陸両道が開かれて幕府の直轄地であったことから江戸との関係が密接となった。当時の江戸は築城や町づくりのために木材や石を大量に必要とし、またその労働力を支えるために食料も必要としていた。そのため、水陸に輸送路を持っていた川越は江戸にとって便利な供給地となった。そして、その見返りとして江戸の文化が川越に入り込み、いつしか江戸に対して「小江戸」と呼ばれるようになった。

 次に、川越はなぜ「蔵造りの町並み」となったのか。

 そのきっかけは、明治26年(1893年)の大火であった。川越商人は江戸との商いによって富の蓄積があったことから復興の財力は十分にあったようだ。そこで、この大火で焼け残った建物が伝統的な工法の蔵造りであったことに着眼し、商人たちはこぞって蔵造りの店舗や店蔵をつくった。東京・日本橋では明治10年代(1870年代後半)に既に蔵造りの町並みが形成されていたこともあり、江戸の商人に対する羨望や憧憬があったとされている。

川越はどのようにして「観光の町」となったか

 さて、川越が観光の町となったのは意外と最近のことである。そのきっかけは1989年に放送されたNHKの大河ドラマ「春日局」であった。

 春日局(1579年~1643年)は三代将軍・徳川家光公の乳母であり、大奥の制度をつくり、これを統率した。寛永15年(1638年)の川越大火によって川越大師喜多院が山門を残してほぼ全焼。家光公は時を経ずして喜多院の再建に着手したが、その際、客殿・書院および庫裏は江戸城紅葉山の御殿を解体して喜多院に移築したものであった。その書院は春日局が使用していたことから、移築後は「春日局化粧の間」と名付けられた。

 春日局により川越が全国に知られる前は、川越の人々は蔵造りの建物を前近代的なものと捉えていたようで、シートで隠すところもあったという。

 それが春日局をきっかけに、蔵造りの建物が連なる町並みは観光資源となると認識するようになり、「小江戸」と「蔵造りの街並み」をセットでアピールするようになった。そして、今日に至っている。