左の事務所入り口は、江戸時代、鹽竃神社の別当寺として大きな勢力を誇った法蓮寺由来の向拝を移築して復元したもの。右の販売部は明治初期の建物で、「浦霞」各種商品を販売している。

 月刊『商業界』2018年8月号の巻頭特集「存続する百年企業の底力」。百年以上の歴史をもつ老舗小売店を取材し、そのバックグラウンドと長く愛される秘訣を探るという特集です。

 100年の間にどんな出来事を乗り越えてきたのか。いつの世にも通じる変わらない価値とは。本誌に掲載された7店舗のうち4店舗をチョイスして「オンライン」に再掲します。

創業1724年(享保9年)
佐浦(宮城・塩釜市)
十三代目当主 佐浦弘一 さん

代表取締役社長 佐浦弘一さん。1962年10月、宮城県生まれ。85年に慶應義塾大学法学部卒業後、3年間飲料会社のマーケティング部に勤務。88年佐浦に入社。91年ニューヨーク大学大学院MBAコースを修了。2001年、代表取締役社長就任。日本酒造組合中央会副会長、観光庁酒造ツーリズム推進協議会委員。

数々の危機を乗り越えてきた不動の「品質本位」経営

 日本酒「浦霞」の製造販売をしている佐浦の起源をたどると、初めはこうじ製造を営んでいた蔵元佐浦家初代尾島屋富右衛門が、1724(享保9)年に酒造株を譲り受け創業、後に藩主伊達氏より、「鹽竃(しおがま)神社のお神酒を納めるように」との御下命(ごかめい)を受けたと伝えられている。

南部杜氏(とうじ)流酒造りが淡麗でうま味のある酒に

江戸末期から明治初期に建てられたといわれている享保蔵を仕込蔵として使用している。

 佐浦は、清酒、関連商品の製造販売をはじめ、地元でのビールの卸売りとゴルフ場経営をしており、約9割が清酒関連の売上げである。

 同社の基本理念は「本物の酒を丁寧に造って、丁寧に売る」。米・米こうじによる、じっくりと心を込めて醸造した高品質な酒を、誠実に丁寧に消費者に届けることにより、日本酒の素晴らしさを伝えることができると同社は考えている。

 基本的な酒造りの工程は同じだが、科学的解明が進んだ結果、酒造りの技術は明治時代になってから大きく進化してきた。

 そして昭和に入り、第2次大戦後、食糧事情や食生活が大きく変化したことから、消費者の嗜好の多様化に合わせ酒類も多様化が進んだ。

 日本酒の嗜好の流れは戦後から高度成長時代にかけて甘口の酒が好まれ、地元の酒蔵の酒は地元で消費されるローカル商圏だったが、ナショナルブランドの登場で、商圏は全国に広がった。

蒸し米の掘り出しの様子。
もろみの攪拌作業。

 佐浦が地酒に力を入れ始めた東京の何軒かの問屋と取引するようになったのは70年代からだ。出荷量のピークは、70年代半ばだったが、その少し前あたりから、東京市場に出荷するようになった。

 出荷が増えるにつれ、本社蔵だけでは供給が追い付かなくなったので、93年に現・東松島市に第2工場の矢本蔵を造り、94年から稼働して、出荷量を増やしている。

 その過程で高度経済成長期の終息に伴い、「日本を再発見しよう」との機運が高まって地酒ブームが起こった。

「浦霞」は新潟の「越乃寒梅」とともに、地酒ブームを牽引。と同時に淡麗辛口が好まれるようになり、80年代後半〜90年代前半、酒の質をより強く求める欲求は、原料、製法を追い求めて吟醸酒ブームが起こった。

 90年代後半からは、 蔵元による酒造りの時代に突入、造り手が本当に造りたい酒を試みる流れが台頭した。

2004年に伝統的な木おけによる酒造りを復活した。「木桶仕込山廃純米酒貮百八拾號」と命名。

 そんな中、子供のころから家業を継ぐことは当たり前と考えてきた佐浦弘一氏が社長に就任したのは、2001年のこと。

「そろそろ、いいタイミングだろう」と、父の茂雄氏から社長を受け継ぎ、十二代目当主は会長になった。

 同社は戦後間もなくから酒造りの責任者に岩手の南部杜氏を採用してきたが、南部杜氏流の酒造りは、”すっきりした味わいできれいな酒質”といわれている。

「吟醸造りの名人といわれた杜氏が当社の酒造りを担いました。きれいな酒質で、すっきりして淡麗ですが、程よくうま味があって飲み口の良いタイプです。食事と一緒に楽しめるバランスのいい酒が当社の持ち味です」と佐浦社長。

 新社長登場の時期は同社が得意とする酒質と世の中が求める酒質が合致しつつあるタイミングであった。